ショスタコーヴィチ:交響曲第5番 / ネルソンス, ボストン交響楽団

2018.06.16 Saturday

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    クラシック道の門を叩いた人に、いきなりショスタコーヴィチを突きつけたら、きっとその場で逃げ出すのではないか。

     

    それがショスタコーヴィチの第8番を聴いた時の率直な印象。第一楽章から20分にも及ぶ、紙のようなアダージョ。時折訳の分からない落書きがなされ、それだけでもう泣きたくなってくる。

     

    ショスタコーヴィチはもう御免蒙ると思ったのも束の間。「では、第5番ならどうだ?」と恐る恐る再生してみる。

     

    …難しい。非常に難しい。それでも難しいものを難しいとそのままにしておくのも、なんだか敵前逃亡をしてしまったチキンのような気がしたので、じっと我慢の子で聴き続けてみる。

     

    それでもやはり難しい。ピアニシモからフォルテシモまで、そして舞台に配置出来るありとあらゆる楽器を使いきり、それによって何かを訴えかけているようなのだが、その何かしらを意図するところの鉄壁な強さに、勝手な想像の余地も許されないようで非常に悔しい。

     

    そう、「俺様の音楽なのだがから、ありがたく聴きたまえ」とでも言ったような、恐るべきジャイアニズム。それがショスタコーヴィチなのではないかという結論に行き着いた。その音楽の前に、ただうなだれて頭を垂れ「なんだか分からないけれども、凄いですね」と、分からないなら分からないなりの賞賛を送るのが、正しい作法なのではないかと思わされるほどに、難しい。

     

    さて、難しい難しいと連呼したところで、ではなぜこれを題材にしたかと問われるのならば、難しいと思ったからこそネタにしたのだ、と堂々と胸を張って答えよう。2018年の今、自分にとってのショスタコーヴィチはこのような感想で、このような回答しか書くことが出来なかった。

     

    ならば5年後、10年後はどうだろうかと、その未来への便りとしてこれを書き残しておくことにしたのだ。そのような未来に自分がこの曲をひもといた際、どのような感想が生まれ、そしてそれが今の感想とどれだけのギャップを生み出しているのか、そこに興味がある。

     

    ショスタコーヴィチさん。いつかは絶対に自分のものにしてみせるからな。その日まで待っていろよ。

     

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    シベリウス:交響曲第5番 / ベルグルンド, ヨーロッパ室内管弦楽団

    2018.06.02 Saturday

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      シベリウスを言葉に起こすのは困難な作業である。指揮者、楽団、録音時期。そのいずれを取ってもそれぞれに大きく個性の異なるものだからである。

       

      無論、それらはどの作曲家の作品においても言えることではあるが、ことシベリウスに関しては、フィンランドという北欧の自然や神話、そこに至る想像や解釈が聴き手である自分には求められるために、その個性の差異にはある程度敏感に対応しなければならない。

       

      ベルグルンドがタクトを振るシベリウスは、その中でも最も良心的な中庸であり、自らがシベリウスに接する上での基準点となっている。ベルグルンドがシベリウスネイティブであるフィンランド人であることを除いても、その描こうとした世界がこの耳には最も雑味なく入り込んでくるのが、彼が指揮する演奏なのである。

       

      さて、シベリウス、こと、この第5番を聴くにあたっては、自然界との対話を求められると常々考えている。それは生命の宿る自然界に目を凝らすことであり、また大気に宿る精霊の呼びかけに耳を澄ます行為でもある。

       

      この地球上に起こりうるありとあらゆる自然現象に対して敬虔であれ。それは歴史ある宗教とストイックに向き合う姿勢にも似て、音の一つ一つを細かくひもときながら、その意味するところ、描くところに想像力というスパイスを効かせながら楽曲に挑む喜びにも繋がる精神的な作業でもある。

       

      弱音部で歌う細かなストリングスのトレモロは、正に目に見えない自然界におけるサムシング(先に精霊と言葉を使ったが)の上に、命は宿っていることを描いているかのよう。植物に例えるのであれば、シダ植物のビロードの上に大木は成り立っていると解釈してもよいだろう。

       

      力強く歌われる管楽器は命の行進。人間を取り除いた自然界がもし存在するのであれば、どれだけの動植物がその命を謳歌するだろうか。果たして人間はこの音楽が描き出す世界の中に存在してよいのだろうか。

       

      そして一番最後に配置された咆吼は、生命の雄叫び。それは断末魔かもしれない。もしくは誕生の祝福か。

       

      創造主たる神。なんとも陳腐な表現ではあるが、それはおそらく絶大たる一つの存在なのではなく、不可視たるミクロの構成によって形作られた「この世を成すもの」なのではないかと、このシベリウスを聴いては想像を働かせるのである。

       

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      ベルリオーズ:幻想交響曲 / ヤルヴィ, シンシナティ交響楽団

      2018.05.19 Saturday

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        自らの意のままには出来ず、無意識下においてのみ展開される、夢。現実的または非現実的。その中身を問わず、人は夢を見ることを避けることは出来ない。理性という箍でコントロールされる意識下の行動とは事なり、その内容は自らが望まないものまでもが脳内で投影される。

         

        悪夢に飛び起きたことはあるか。恐怖を前にして自らの声を出すことが出来ない、そこから逃れることが出来ない夢を見たことはあるか。幸せの極みを夢見て、目覚めた瞬間の落胆に絶望を抱いたことはあるか。

         

        現実のハッピーエンドを望むものには最悪の結末を。ペシミストにはこの上ない多幸感を。対極にあるものも、均されてそこにあるものも、全て平等に機会は与えられる。しかし自由ではあるが、自由にすることは出来ない。まこと理不尽ではあるが、それを文字通り夢見ることを望む者もいる。夢を見ることだけに現実への逃避を望む者もいる。

         

        現実はそれほどまでに厳しいものであるか。夢を夢見て生きる日々もあるのだろうか。逃避の先に、時空が歪むほどの夢を見たのであれば、人の背に翼が生えることもあり得るのだろうか。

         

        ベルリオーズは歌う。人は無意識において展開される夢という摩訶不思議な現象において、ありとあらゆる場面を描くことが出来る、それは人に与えられた唯一の不可侵なる自由であると。不可侵であるが故に、理不尽もある、禁忌もある、欲望も満たされる。感情と状況のるつぼである所の夢。譜面に書き起こせば、夢はここまで奇怪に展開される。奇怪であり、誰しもに与えられた機会でもある夢。

         

        さあ、その長く尖った爪で相手の胸を刺すがよい。背に生えた翼で自在に宙を飛び回るがよい。夢は奇怪。夢は欲望。夢は人に与えられた最後の自由の砦。

         

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