ブラームス:交響曲第4番 / マゼール, クリーヴランド管弦楽団

2018.07.28 Saturday

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    自分がクラシック音楽をなんとなく聴けるようになった頃に、「ブラームスの4番なんかは聴きやすいからお勧めするよ」と知人に教えられ、取りあえず入った店舗にて廉価で売られていたCDを購入したのがこのブラームス全集。もちろん、ブラームスの曲も知らなければ、当然のように指揮者のマゼールの名前などは聞いたこともない。安かったから買ってみた。ただそれだけのこと。

     

    そこからまずは真っ先に第4番を聴き「ふむ、なるほど」と言ったような印象を受けた記憶がある。

     

    その後も何度となくCDラックから引っ張り出しては、この第4番ばかりを聴いていた。知らずうちに魅せられていた理由は、何よりも主旋律がはっきりしていて分かりやすいことと、楽曲そのものが適度にロマンティックで、映画音楽であるかのように肩肘張らずに楽しめることにある。オーケストラの主たる楽器を、旋律の主人公にうまく割り振って使って書かれているあたりも、今なら魅力の一つだと言えるかもしれない。

     

    その後、名だたる指揮者やオーケストラのブラームスを聴いてきたけれども、結局は最初に聴いたこのディスクに戻ってくる。決してその他のブラームスが気に入らなかったわけでもなく、なんとなく愛着が湧いてしまっただけのこと。クラシック音楽、それも一つの楽曲の一つの演奏に愛着が湧くなどと言うことがあるものなのだと、実は今これを書いている時点で少々驚いている。

     

    録音が良く、過剰な残響もないために楽器の見晴らしが良く、自分にとってとても聴きやすいことが、この演奏を愛する理由。何よりも、重厚過ぎないオーケストラのバランスの良さが一番のツボ。ほどよい軽妙さから引き出される聴きやすさが、自分にとって最大の魅力なのだ。
     

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    Brahms: Symphonies No.1-No.4, Haydn Variations, etc

     

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    ショスタコーヴィチ:交響曲第5番 / ネルソンス, ボストン交響楽団

    2018.06.16 Saturday

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      クラシック道の門を叩いた人に、いきなりショスタコーヴィチを突きつけたら、きっとその場で逃げ出すのではないか。

       

      それがショスタコーヴィチの第8番を聴いた時の率直な印象。第一楽章から20分にも及ぶ、紙のようなアダージョ。時折訳の分からない落書きがなされ、それだけでもう泣きたくなってくる。

       

      ショスタコーヴィチはもう御免蒙ると思ったのも束の間。「では、第5番ならどうだ?」と恐る恐る再生してみる。

       

      …難しい。非常に難しい。それでも難しいものを難しいとそのままにしておくのも、なんだか敵前逃亡をしてしまったチキンのような気がしたので、じっと我慢の子で聴き続けてみる。

       

      それでもやはり難しい。ピアニシモからフォルテシモまで、そして舞台に配置出来るありとあらゆる楽器を使いきり、それによって何かを訴えかけているようなのだが、その何かしらを意図するところの鉄壁な強さに、勝手な想像の余地も許されないようで非常に悔しい。

       

      そう、「俺様の音楽なのだがから、ありがたく聴きたまえ」とでも言ったような、恐るべきジャイアニズム。それがショスタコーヴィチなのではないかという結論に行き着いた。その音楽の前に、ただうなだれて頭を垂れ「なんだか分からないけれども、凄いですね」と、分からないなら分からないなりの賞賛を送るのが、正しい作法なのではないかと思わされるほどに、難しい。

       

      さて、難しい難しいと連呼したところで、ではなぜこれを題材にしたかと問われるのならば、難しいと思ったからこそネタにしたのだ、と堂々と胸を張って答えよう。2018年の今、自分にとってのショスタコーヴィチはこのような感想で、このような回答しか書くことが出来なかった。

       

      ならば5年後、10年後はどうだろうかと、その未来への便りとしてこれを書き残しておくことにしたのだ。そのような未来に自分がこの曲をひもといた際、どのような感想が生まれ、そしてそれが今の感想とどれだけのギャップを生み出しているのか、そこに興味がある。

       

      ショスタコーヴィチさん。いつかは絶対に自分のものにしてみせるからな。その日まで待っていろよ。

       

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      シベリウス:交響曲第5番 / ベルグルンド, ヨーロッパ室内管弦楽団

      2018.06.02 Saturday

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        シベリウスを言葉に起こすのは困難な作業である。指揮者、楽団、録音時期。そのいずれを取ってもそれぞれに大きく個性の異なるものだからである。

         

        無論、それらはどの作曲家の作品においても言えることではあるが、ことシベリウスに関しては、フィンランドという北欧の自然や神話、そこに至る想像や解釈が聴き手である自分には求められるために、その個性の差異にはある程度敏感に対応しなければならない。

         

        ベルグルンドがタクトを振るシベリウスは、その中でも最も良心的な中庸であり、自らがシベリウスに接する上での基準点となっている。ベルグルンドがシベリウスネイティブであるフィンランド人であることを除いても、その描こうとした世界がこの耳には最も雑味なく入り込んでくるのが、彼が指揮する演奏なのである。

         

        さて、シベリウス、こと、この第5番を聴くにあたっては、自然界との対話を求められると常々考えている。それは生命の宿る自然界に目を凝らすことであり、また大気に宿る精霊の呼びかけに耳を澄ます行為でもある。

         

        この地球上に起こりうるありとあらゆる自然現象に対して敬虔であれ。それは歴史ある宗教とストイックに向き合う姿勢にも似て、音の一つ一つを細かくひもときながら、その意味するところ、描くところに想像力というスパイスを効かせながら楽曲に挑む喜びにも繋がる精神的な作業でもある。

         

        弱音部で歌う細かなストリングスのトレモロは、正に目に見えない自然界におけるサムシング(先に精霊と言葉を使ったが)の上に、命は宿っていることを描いているかのよう。植物に例えるのであれば、シダ植物のビロードの上に大木は成り立っていると解釈してもよいだろう。

         

        力強く歌われる管楽器は命の行進。人間を取り除いた自然界がもし存在するのであれば、どれだけの動植物がその命を謳歌するだろうか。果たして人間はこの音楽が描き出す世界の中に存在してよいのだろうか。

         

        そして一番最後に配置された咆吼は、生命の雄叫び。それは断末魔かもしれない。もしくは誕生の祝福か。

         

        創造主たる神。なんとも陳腐な表現ではあるが、それはおそらく絶大たる一つの存在なのではなく、不可視たるミクロの構成によって形作られた「この世を成すもの」なのではないかと、このシベリウスを聴いては想像を働かせるのである。

         

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