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2018.09.17 Monday

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    シベリウス:交響曲第5番 / ベルグルンド, ヨーロッパ室内管弦楽団

    2018.06.02 Saturday

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      シベリウスを言葉に起こすのは困難な作業である。指揮者、楽団、録音時期。そのいずれを取ってもそれぞれに大きく個性の異なるものだからである。

       

      無論、それらはどの作曲家の作品においても言えることではあるが、ことシベリウスに関しては、フィンランドという北欧の自然や神話、そこに至る想像や解釈が聴き手である自分には求められるために、その個性の差異にはある程度敏感に対応しなければならない。

       

      ベルグルンドがタクトを振るシベリウスは、その中でも最も良心的な中庸であり、自らがシベリウスに接する上での基準点となっている。ベルグルンドがシベリウスネイティブであるフィンランド人であることを除いても、その描こうとした世界がこの耳には最も雑味なく入り込んでくるのが、彼が指揮する演奏なのである。

       

      さて、シベリウス、こと、この第5番を聴くにあたっては、自然界との対話を求められると常々考えている。それは生命の宿る自然界に目を凝らすことであり、また大気に宿る精霊の呼びかけに耳を澄ます行為でもある。

       

      この地球上に起こりうるありとあらゆる自然現象に対して敬虔であれ。それは歴史ある宗教とストイックに向き合う姿勢にも似て、音の一つ一つを細かくひもときながら、その意味するところ、描くところに想像力というスパイスを効かせながら楽曲に挑む喜びにも繋がる精神的な作業でもある。

       

      弱音部で歌う細かなストリングスのトレモロは、正に目に見えない自然界におけるサムシング(先に精霊と言葉を使ったが)の上に、命は宿っていることを描いているかのよう。植物に例えるのであれば、シダ植物のビロードの上に大木は成り立っていると解釈してもよいだろう。

       

      力強く歌われる管楽器は命の行進。人間を取り除いた自然界がもし存在するのであれば、どれだけの動植物がその命を謳歌するだろうか。果たして人間はこの音楽が描き出す世界の中に存在してよいのだろうか。

       

      そして一番最後に配置された咆吼は、生命の雄叫び。それは断末魔かもしれない。もしくは誕生の祝福か。

       

      創造主たる神。なんとも陳腐な表現ではあるが、それはおそらく絶大たる一つの存在なのではなく、不可視たるミクロの構成によって形作られた「この世を成すもの」なのではないかと、このシベリウスを聴いては想像を働かせるのである。

       

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