ベルリオーズ:幻想交響曲 / ヤルヴィ, シンシナティ交響楽団

2018.05.19 Saturday

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    自らの意のままには出来ず、無意識下においてのみ展開される、夢。現実的または非現実的。その中身を問わず、人は夢を見ることを避けることは出来ない。理性という箍でコントロールされる意識下の行動とは事なり、その内容は自らが望まないものまでもが脳内で投影される。

     

    悪夢に飛び起きたことはあるか。恐怖を前にして自らの声を出すことが出来ない、そこから逃れることが出来ない夢を見たことはあるか。幸せの極みを夢見て、目覚めた瞬間の落胆に絶望を抱いたことはあるか。

     

    現実のハッピーエンドを望むものには最悪の結末を。ペシミストにはこの上ない多幸感を。対極にあるものも、均されてそこにあるものも、全て平等に機会は与えられる。しかし自由ではあるが、自由にすることは出来ない。まこと理不尽ではあるが、それを文字通り夢見ることを望む者もいる。夢を見ることだけに現実への逃避を望む者もいる。

     

    現実はそれほどまでに厳しいものであるか。夢を夢見て生きる日々もあるのだろうか。逃避の先に、時空が歪むほどの夢を見たのであれば、人の背に翼が生えることもあり得るのだろうか。

     

    ベルリオーズは歌う。人は無意識において展開される夢という摩訶不思議な現象において、ありとあらゆる場面を描くことが出来る、それは人に与えられた唯一の不可侵なる自由であると。不可侵であるが故に、理不尽もある、禁忌もある、欲望も満たされる。感情と状況のるつぼである所の夢。譜面に書き起こせば、夢はここまで奇怪に展開される。奇怪であり、誰しもに与えられた機会でもある夢。

     

    さあ、その長く尖った爪で相手の胸を刺すがよい。背に生えた翼で自在に宙を飛び回るがよい。夢は奇怪。夢は欲望。夢は人に与えられた最後の自由の砦。

     

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    ベルリオーズ:幻想交響曲

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    Berlioz,Jarvi,Cincinnati Symphony Orchestra
    Telarc
    ¥ 5,423
    (2001-10-23)

    プロコフィエフ:交響曲第5番 / ウェラー, ロンドン交響楽団

    2018.05.12 Saturday

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      打楽器が楽曲を荒波のように激しく盛り立てる中で、勇ましさと時折の優しさとの表情を入れ替えながら曲は進んでいく。

       

      ややすると曲全体が嵐の最中にあるようなイメージも持ちうるが、その手綱を緩めない攻撃性が何とも言い難い痛快さを導き出す。「美」とはかけ離れるのかもしれないが、「勇」であることを潔しとするそのスコアリングが、20世紀と言う2つの世界大戦を擁した現代激動期を表現しようと試みたものではないかとまで想像させてしまうあたりが面白い。

       

      言い換えると、休みがないのだ。確かにスコア上には一時の休息となる部位はある。それもやはり嵐の前触れであり、事実、その先には嵐が確実に待ち構えている。20世紀に安寧なしとプロコフィエフが言い放っているかのごとく曲が進んでいくように見えるのは、しつこくうがち過ぎだろうか。

       

      戦火に疾走し、緊迫を持った時代。それらを走馬灯のように書き写すと、このようなひたすらに勇ましい、昂ぶりを持った作品が生まれるのではないかと、20世紀半ばを大きく過ぎての、半端な時代に生まれ育った自分は勝手な想像を膨らませてしまうのである。

       

      たとえ平和ボケと言われて育った世代であっても、その手前には全世界的に戦火が吹き荒れていたことを知らしめる作品。平和を安易に描くのではなく、争いを描くことで対義に平和への思いを馳せる。それがこのプロコフィエフの第5番の意図するところではないかと思いながらも、一方でやはりこの攻撃性は痛快であると、単純に呵々と笑い飛ばしながら聴くことも出来るのだ。

       

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      Prokofiev: Complete Symphonies

       

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      マーラー:交響曲第5番 / テンシュテット, ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

      2018.05.05 Saturday

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        鬼気迫るマーラー。その一言に尽きる。

         

        金切り声を上げ、刃物を持って襲いかかったかと思えば、ふとすると優しげな声で語りかけてくる。それが同一人物の中で行われる行為であるのであれば、これは完全に何かが破綻しているとしか言いようがない。

         

        しかし、それは人としてあるべくしてある感情の極端な振れ幅。誰しもが持っているだろう狂気と母性。それらはアンビバレンツなものではなく、人という器の中に収められた、極めて原始的な感情の源である。

         

        その感情の奔流を一つのサーガとしてまとめ上げたのがこのマーラーの第5番なのだと、テンシュテットは演奏をもって明言している。時に耳を塞ぎたくなるような咆吼は、それを聴き手である自分が人間として持っている感情の一部分をえぐられているからであり、そして時に目まぐるしく移り変わる場面転換への聴覚の集約は、そこに何が潜んでいるかとのぞき込みたくなる、好奇心と言う名の無防備さを人間として持っているからである。

         

        これほどまでに人を揺さぶる力を持つ音楽と対峙するには、それ相応の強靱な心を持つことすら要求されているかのよう。えぐる、掘り下げる、そして突く。それは攻撃と言う野蛮な行為ではなく、自らを省みる際に必要とされる、痛みを伴う自己分析でもあるのだろうと。

         

        正気でこのマーラーを聴くには、あまりにも人の心の膜は薄すぎる。逆説的に人の感情はその器が大きいものであるからゆえ、マーラーのこの自省を促す行為にも耐えることが出来るのかもしれない。

         

        恐ろしい。それでもこの音の渦に呑まれたい。それこそがアンビバレンツ。

         

        マーラーの魔力。聴き手をそこまで追い詰める力。それを音として彫りだしたテンシュテット。極みの一端はこういったところに現れる。
         

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        Mahler: Complete Symphonies No.1-No.10

         

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