シベリウス:交響曲第5番 / ベルグルンド, ヨーロッパ室内管弦楽団

2018.06.02 Saturday

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    シベリウスを言葉に起こすのは困難な作業である。指揮者、楽団、録音時期。そのいずれを取ってもそれぞれに大きく個性の異なるものだからである。

     

    無論、それらはどの作曲家の作品においても言えることではあるが、ことシベリウスに関しては、フィンランドという北欧の自然や神話、そこに至る想像や解釈が聴き手である自分には求められるために、その個性の差異にはある程度敏感に対応しなければならない。

     

    ベルグルンドがタクトを振るシベリウスは、その中でも最も良心的な中庸であり、自らがシベリウスに接する上での基準点となっている。ベルグルンドがシベリウスネイティブであるフィンランド人であることを除いても、その描こうとした世界がこの耳には最も雑味なく入り込んでくるのが、彼が指揮する演奏なのである。

     

    さて、シベリウス、こと、この第5番を聴くにあたっては、自然界との対話を求められると常々考えている。それは生命の宿る自然界に目を凝らすことであり、また大気に宿る精霊の呼びかけに耳を澄ます行為でもある。

     

    この地球上に起こりうるありとあらゆる自然現象に対して敬虔であれ。それは歴史ある宗教とストイックに向き合う姿勢にも似て、音の一つ一つを細かくひもときながら、その意味するところ、描くところに想像力というスパイスを効かせながら楽曲に挑む喜びにも繋がる精神的な作業でもある。

     

    弱音部で歌う細かなストリングスのトレモロは、正に目に見えない自然界におけるサムシング(先に精霊と言葉を使ったが)の上に、命は宿っていることを描いているかのよう。植物に例えるのであれば、シダ植物のビロードの上に大木は成り立っていると解釈してもよいだろう。

     

    力強く歌われる管楽器は命の行進。人間を取り除いた自然界がもし存在するのであれば、どれだけの動植物がその命を謳歌するだろうか。果たして人間はこの音楽が描き出す世界の中に存在してよいのだろうか。

     

    そして一番最後に配置された咆吼は、生命の雄叫び。それは断末魔かもしれない。もしくは誕生の祝福か。

     

    創造主たる神。なんとも陳腐な表現ではあるが、それはおそらく絶大たる一つの存在なのではなく、不可視たるミクロの構成によって形作られた「この世を成すもの」なのではないかと、このシベリウスを聴いては想像を働かせるのである。

     

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    チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番 / リヒテル, カラヤン, ウイーン交響楽団

    2018.05.26 Saturday

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      リヒテルとカラヤンが組んだ、この1962年録音のチャイコフスキーがたまらない。

       

      全てにおいて雄弁な演奏であるのにもかかわらず、この上なくスポーティー。緩急自在に曲をコントロールしているのはカラヤンの力なのかリヒテルの演奏なのか。もちろんそのどちらもそれぞれに寄り添いながらも、お互いの主張を一歩も譲らない雰囲気まで漂う演奏が、これまた聴き手にこの上ない緊張感とカタルシスを与える。

       

      ピアノ協奏曲なのでもちろん聴き所はリヒテルのピアノ。これがとにかくキメる。キメッキメ。歯切れの良さに打鍵のバリエーションの豊かさが加わって、向かうところ敵なしの演奏を聴かせてくる。ピアノが休んだ瞬間、音が箸休めに聞こえてしまうほどに、その主張は激しい。

       

      何よりも一番の聴き所は、これでもかと言わんばかりにキメる縦の強さ。このキメの強さはテクニカルと称するよりも、むしろメカニカルなのではないかと思えてしまうほど。滑らかに歌う箇所においても、決して横滑りすることなく、必ず縦の線を印象強く残している。しかしそれは決して機械的と表するものではなく、曲を美しく歌いながらの縦への明瞭な意識が奏者の中に存在しているからなのだろうと。

       

      もちろんオケとの噛み合い方も明快かつ力強い。特に第3楽章で味わえるこの歯車の見事な噛み合わせは、ピアノ協奏曲界のピタゴラ装置ではないかと。

       

      曲が終わった瞬間に思わず溜め息と拍手が出てしまう濃厚な35分間。名演という表現が決して大げさではない、美しさと力強さを誇っている。それは録音から60年が経とうとしている今においても、何も色褪せるものではない。

       

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      ベルリオーズ:幻想交響曲 / ヤルヴィ, シンシナティ交響楽団

      2018.05.19 Saturday

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        自らの意のままには出来ず、無意識下においてのみ展開される、夢。現実的または非現実的。その中身を問わず、人は夢を見ることを避けることは出来ない。理性という箍でコントロールされる意識下の行動とは事なり、その内容は自らが望まないものまでもが脳内で投影される。

         

        悪夢に飛び起きたことはあるか。恐怖を前にして自らの声を出すことが出来ない、そこから逃れることが出来ない夢を見たことはあるか。幸せの極みを夢見て、目覚めた瞬間の落胆に絶望を抱いたことはあるか。

         

        現実のハッピーエンドを望むものには最悪の結末を。ペシミストにはこの上ない多幸感を。対極にあるものも、均されてそこにあるものも、全て平等に機会は与えられる。しかし自由ではあるが、自由にすることは出来ない。まこと理不尽ではあるが、それを文字通り夢見ることを望む者もいる。夢を見ることだけに現実への逃避を望む者もいる。

         

        現実はそれほどまでに厳しいものであるか。夢を夢見て生きる日々もあるのだろうか。逃避の先に、時空が歪むほどの夢を見たのであれば、人の背に翼が生えることもあり得るのだろうか。

         

        ベルリオーズは歌う。人は無意識において展開される夢という摩訶不思議な現象において、ありとあらゆる場面を描くことが出来る、それは人に与えられた唯一の不可侵なる自由であると。不可侵であるが故に、理不尽もある、禁忌もある、欲望も満たされる。感情と状況のるつぼである所の夢。譜面に書き起こせば、夢はここまで奇怪に展開される。奇怪であり、誰しもに与えられた機会でもある夢。

         

        さあ、その長く尖った爪で相手の胸を刺すがよい。背に生えた翼で自在に宙を飛び回るがよい。夢は奇怪。夢は欲望。夢は人に与えられた最後の自由の砦。

         

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        プロコフィエフ:交響曲第5番 / ウェラー, ロンドン交響楽団

        2018.05.12 Saturday

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          打楽器が楽曲を荒波のように激しく盛り立てる中で、勇ましさと時折の優しさとの表情を入れ替えながら曲は進んでいく。

           

          ややすると曲全体が嵐の最中にあるようなイメージも持ちうるが、その手綱を緩めない攻撃性が何とも言い難い痛快さを導き出す。「美」とはかけ離れるのかもしれないが、「勇」であることを潔しとするそのスコアリングが、20世紀と言う2つの世界大戦を擁した現代激動期を表現しようと試みたものではないかとまで想像させてしまうあたりが面白い。

           

          言い換えると、休みがないのだ。確かにスコア上には一時の休息となる部位はある。それもやはり嵐の前触れであり、事実、その先には嵐が確実に待ち構えている。20世紀に安寧なしとプロコフィエフが言い放っているかのごとく曲が進んでいくように見えるのは、しつこくうがち過ぎだろうか。

           

          戦火に疾走し、緊迫を持った時代。それらを走馬灯のように書き写すと、このようなひたすらに勇ましい、昂ぶりを持った作品が生まれるのではないかと、20世紀半ばを大きく過ぎての、半端な時代に生まれ育った自分は勝手な想像を膨らませてしまうのである。

           

          たとえ平和ボケと言われて育った世代であっても、その手前には全世界的に戦火が吹き荒れていたことを知らしめる作品。平和を安易に描くのではなく、争いを描くことで対義に平和への思いを馳せる。それがこのプロコフィエフの第5番の意図するところではないかと思いながらも、一方でやはりこの攻撃性は痛快であると、単純に呵々と笑い飛ばしながら聴くことも出来るのだ。

           

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